●始まりは「十三ファンダンゴ」
人生初のライブハウスはウルフルズも出ていた「十三ファンダンゴ」。
たしか、18歳とかそのあたりだったと思う。
ドイツの「OXYMORON」っていうゴリゴリのパンクバンドを友達と見に行った。
当時の僕はパンクロックにどっぷり浸かっていて、学生鞄は落書きだらけ(反戦とか書いてた)&鋲を打って、いざという時にはマーチン10ホールを締め上げ、ダイエースプレーでスパイキーヘアに仕上げ、写真を撮る時には片目を瞑って舌を出し、口を斜めにひねりながら逆ピースするっていうお手本のようなパンク少年だった。
当然のことながらパンク雑誌「DOLL」を熟読し、アメ村の「666」や「DART」でアイテムを揃えていた。
ブルーハーツ好きだった僕のパンク色を強めた年下の友達と一緒に、十三ファンダンゴ・天保山ベイサイドジェニー・京都ミューズホール・梅田ギルドとか、あちこち行った。
チケットを渡し、ドリンク代を払い、ドリンクチケットを貰い、左手の甲にロゴのゴム印を押してもらう。
再入場する時は「もぎり」の人に手の甲を見せれば通してくれる。
今や慣れてしまってなんとも思わないけれど、当時はそういうルールにもいちいちドキドキしていた。
高校を卒業してからはバンド活動も本格的になり、出たり観たりでライブハウスに出入りするようになってからは手の甲のゴム印も増えていった。
もしゴム印が消えないタトゥーだったら、僕の左手の甲は真っ黒になっているだろう。
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●それ以上に押した2年間
21歳の時にバンドが解散したあと、22歳から24歳の2年間は「江坂ブーミンホール」というライブハウスでスタッフをしていた。
バンド解散後はあてもなく人生転々としていたけれど「やっぱり音楽に関わりたい!」という気持ちでアルバイトを始めて2年の間にブッキングやイベント企画もしたけれど、新人の頃はドリンクカウンターやチケットもぎりばかりしていた。
もぎりとして、ドリンク代と引き換えにドリンクチケットを渡し、手の甲にはゴム印を押す。
今度は僕が押す側になった。
ブーミンホールは最大で300人くらい入るキャパだったので大きなイベントでは数えきれないくらい押したし、平日晩のブッキングライブだとゴム印なんて押さなくても顔を覚えられるくらいしかお客さんがいない日もあった。
25歳になる少し前、喫茶ピーコックを始めるまでのあいだは音楽漬けの毎日だったし、僕の企画力のようなものはこの時に鍛えられた。
なんならゴム印のデザインもできるようになって、今でもあれこれ作ったりしている。
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●ゴム印押されて、ニヤつくおじさん
こないだひさしぶりにバンドのライブを観に行った。
平日の夜、店を閉めたら超特急でミナミのライブハウスへ。
夜の心斎橋は外国の人ばかりだし、キョロキョロしながら観光気分。
そごうがパルコになってたの、初めて知った。
それにしてもあいかわらず、東心斎橋はアメ村とは違った怪しさがある。
Googleマップで場所を調べて到着し、受付ではスマホでWEBチケットを提示する。
受付ではQRコードを読み取り、入場可となる。
20年も経てば紙チケットなんて使わなくなるし、ミシン目をもぎるなんてこともしなくなるんだな。
でもその後の流れは同じで、ドリンク代と引き換えにドリンクチケットを貰い、左手の甲にゴム印を押してもらう。
ワンマンライブだし再入場することもないだろうけれど、この儀式をひさびさに体感してひとりで感動してた。
世界がどれだけデジタルになって時代が変わろうとも、「ライブハウスの受付では手の甲にゴム印を押してもらう」っていう儀式は残してほしい。
懐古的に僕がそう思っているせいだろうけど、物理的に「皮膚にインクを付けられる」みたいな体験は機能ではなく「意味」として大事だと思う。
茶を点てる、薪を割る、殻を剥くとか、そういう「所作(動作)」を伴うものは感性のスイッチになるし、記憶や情動にも繋がっている。
店で言うと「貨幣を受け渡しする」のと「非接触で決済する」くらい違う。
ピーコックでプリペイドカードやスタンプカードを採用しているのはそういう物理的なコミュニケーションを狙っているからだし、実際にあのやり取りをすると距離が縮まる。
左手の甲に店のゴム印を押してくる喫茶店なんて面倒で仕方ないだろうけど、鳥居の前で一礼するみたいな「儀式」めいたことは人の深いところに届くのだろうと思う。
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●店主のYouTubeラジオ「宇宙 日本 服部」
『量より質、それもいろんなやつの。』















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