日曜日は尼崎ENGAWA化計画の藤本くんとサシ飲み。
尼崎ぱーちーで知り合い、そこからちょこちょこやり取りはするんだけど、しっかり話すのは初めてで。
そりゃもう、楽しかったさ!!!
自分の考えてることだとか相手の考えてることだとかをちゃんぷるーするわけだし(沖縄料理食いました)、僕の周りにはなかなかいないタイプの人なので興味津々。
なんていうかね、前々から言葉の通じる人かな?と思ってたんですよね。
言葉っていうのは、日本語とかそういうのじゃなくて、意思の疎通や共感を得れる人ってこと。
話しているうちに「そう、それそれ!!」とか、「あー、なるほどな。そうやな。」みたいのが次々に出てきて、見知らぬアジアのど真ん中で偶然日本人に出会った気分。(パスポート持ってないしそういう経験ないので知らんけど!)
昨日の会話の中で、、、
・公園の経営ってできるんじゃないか?
・公共の人になりたい
・社会の歯車になる
・のび太がいなかったらドラえもんの価値はない
・ドトールの店長が神輿を担ぎ出したらやばい
…とかね。
ピーコックのスタッフに力説しても白い目でしか見られないことを藤本くんは丁寧に拾い上げてくれましたよ(笑)
その中でも、【公共の人になる】っていうのは、信号みたいなもんで。
ようするに、「その場にいてほしいヒト・そこにあってほしいモノ・それがあればうまくいこくコト」に目を向けたほうが良いんじゃないかってこと。
自分が何かしらの画期的な商品を開発したり、斬新なサービスを開始したり、その良さを猛烈にアピールしたりするんじゃなくって。
それがなきゃ困るなぁ…ってことになれば、周りのみんなが少しずつ出し合って成立させてくれるんじゃないかなって思うんですよ。
例えば、交差点に信号があって、それに対して周囲の人が文句を言わない(税金の無駄遣いだ!とか)言わないのって「あったほうが良い」からなんじゃないかと。
もしそれがなくなってしまえば目の前で交通事故が起きたりするんだし、それを成立させるためのお金や場所は何とかしてくれる。
子供が多い時間帯なら見守ってもくれる。
これってやっぱり、「周囲の総意」で成立してるわけで、それってかなり公共性があるなと。
誰かのわがままで信号が出来たり、公園の遊具が増えたりとかって稀だと思うんですよね。(寄贈とかはあるにせよ)
だから、信号とか公園とか救急車とか生活インフラに対しては、その存在を否定するような意見が出にくいし、継続させるだけの総意が得られるんじゃないかと。
まぁ、その運用に関しては無駄な部分とかもあるし、一概には言えないんだけど。
これを思い切って「人」や「店」に当てはめた時に、「公共の人」ってフレーズが出てきたんですよ。
「あいつ、信号みたいやな!」ってことが。(笑)
「居たほうが良い人、そこになきゃ困る店」という、みんなのインフラに組み込まれれば強いわけで、それが生活であったり心情であったりするんだけど。
だから例えば、大手のコーヒーチェーンが進出してきた時に、価格や量ではなかなか太刀打ちできないわけです。
そしたらもうこれ、何で戦っていくかってなったらさ。
【 地域の祭りで神輿を担ぐ 】しかねーな!と。
そうやって、商品やサービスとか「経済」の部分ではなくて、「生活」や「人生」の部分で町の人と関わっていくことの方が、その結束は強いんじゃないのかなと思うわけです。
特にこういう小さな町の中ではなおさら。
・あの人には頑張ってほしい
・あれが無くなると寂しくなる
・あれがなきゃ張り合いがない
とかね、価値を測る基準はお金だけじゃないよねっていう話。
だからさ、ドトールの店長が神輿担ぎだしたりしたらウチはマジでやべーなと。
でもそういう競争の方が案外楽しかったり、良い町が出来たりするかもしれんよね。
価格競争じゃなくって、アイツええやつやな競争。(笑)