タモリになる。

※この記事は以前「一生懸命を笑え.net」に掲載したものを加筆訂正しています。

 

 

ずいぶん前から、あちこちで「タモリになればいい」っていう話をしているんだけど。

 

それは競争社会を抜け出す唯一の方法で、ようするに「唯一無二」になればいいんです。

他社との差別化をだとか、商品の付加価値をって話している間も、タモリはタモリであり、それ以上でもそれ以下でもなく、「他社のタモリなど存在しない」んです。

それぞれがみんな「俺のタモリ」にさえなってしまえば、コーヒーを売ろうが、チラシをデザインしようが、歌を歌おうが、なんだってできる。

 

タモリの淹れたコーヒーは飲んでみたいし、タモリが描いた絵は見てみたい。

タモリがデザインした建築は興味があるし、タモリのカバンの中身も知りたい。

 

 

 

なんなら、奥田民生でもいい。

 

 

でも、よくよく考えてみると、そもそも僕らは唯一無二の存在なはずなんです。

どこでどう間違って、他人と比べたり、隣を羨ましがる毎日になってしまったんだろうか。

 

 

 

その答えは簡単で、「先に正解を知らされている」から。

 

豊かさとは、幸せとは、かっこいいとは、かわいいとは、偉いとは、優しいとは、男とは、女とは、、、

〇〇とは、〇〇である!っていうやつ。

 

戦後復興からの経済成長期は「ひと山の頂上を全員が目指す」っていう教育が正解だったし、その結果として目覚ましい発展を遂げたのは事実。

タモリだの鶴瓶だの民生だの陽水だの言わず、示された正解を追い求めれば良かったんです。

 

 

でも、成長社会から成熟社会へ移り変わる中で、多種多様な社会になってくると「正解やゴール」も人それぞれ。

人の見る目もまた、多様なものを認め合う世の中になっていきます。

 

 

そうなると個々にルールやジャンルの違うスポーツをしているようなもので、誰が一番だとか誰かと比べることに意味がなくなってしまったんです。

布袋寅泰と松本孝弘、どっちがギターうまいねん?みたいな話です。

 

お互いに好きなようにやればいいし、それを好きな人がそれを聴けばいいんです。

だから「どうやったら売れるか」とか「何が売れてるのか」を教えてもらおうと四苦八苦するんじゃなくて、「そもそも自分は何が好きで、何が嫌いで、何ならがんばれて、何に怒っているのか」。

 

それをよくよく見つめ直して、できるだけ丁寧に造形すること。

 

「じぶん」か「じぶんじゃない」か。

「タモリ」か「タモリじゃない」か。

 

僕らが見ているタモリは、「タモリじゃない部分」を森田さんが丁寧に削ぎ落とした結果じゃないかと思うんです。

 

 

知らんけどね。(笑)

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