水牛の群れが核家族化したらサバンナで暮らせないよねって話。

 

今日は「こどもれもねいど」で豊中駅前ジャンプフェスタ。

たくさんの人に「れもスポ」を取ってもらったり、ギター弾いて歌ったりもしました!

れもんキャラもずいぶん根付いてきまして、もはや自然。

違和感などあるはずもなく。

 

 

団欒長屋のうた、豊中れもんのうた、2曲を団欒のこどもたちと熱唱。

違和感などあるはずもなく。

 

 

 

そんでもって途中からはスタッフに任せて、「とよなか地域創生塾」に参加。

いよいよグループに分かれてのテーマや課題設定になってきました。

 

 

で。

やっぱり、「村」やなと。

人それぞれ違うだろうけど、僕の中では断然「村」。

前に書いた村の保全の話もそうなんだけど、様々な個人や家族が群れをなす、そのかたち。

子育てから就労から介護や福祉に至るまで、緩やかに繋がる輪の中で関わり合っていけばいいんじゃないかと。

 

 

でもなんかそれって、猫や猿や水牛とか、ずっとやってるんちゃうかと思って。

水牛とか特にそんな気がする。

ようするに、「生きていく単位(生きていける最小単位)」は、環境によって変わるんじゃないかって思ったんですよ。

 

むちゃくちゃ寒いとか暑いとか、ほとんど雨が降らないとか食料が少ないとか、大雨が降るとか身の危険を感じるとか。

そうなってくると、ある程度の数でまとまらないと生きていけないですからね。

「群れをなす」って、そういうことなんかなと。

世界を見渡してみても、チベットの山奥とかジャングルの秘境とかさ、個人じゃ無理でしょあんなの。

 

日本は物質的に(インフラや医療も)豊かに「生きていきやすく(環境によって命を落としにくく)」なって、生きていく最小単位が個人だったり核家族だったりに移っていったのかもしれないけど。

 

 

ここへきてやっぱり。

 

「あれ? もしかして生きにくくねー??」

「前のほうが良くねー?」

 

 

…っていう空気が出てきてるんじゃないかと。(全部じゃないけどね)

昔はネットやらの通信網がなかったので距離を軸とした「村」だったんだけど、今はネットもあるし距離と気持ちの両方で繋がれる気がします。

裏を返せば、「小さな単位では生きていきにくくなってる」ということかもしれませんね。

 

 

例えば、大地震が起こったりミサイルが飛んできそうになったりすると、人は周りの人と「ぎゅっと」繋がるじゃないですか。

安心できる単位にまで、生きていく上で関わる範囲を広げてると思うんですよ。

人によって差異はあれど、不安を解消できる単位。

 

 

なのでやっぱり、「安心して生きていける最小単位」について考える時には、血縁や核家族を越えての暮らしも当然アリなわけです。

その仕組み、プラットフォームとして、「村」はすごく良い単位だなぁと。

 

 

昔、何かで読んだ

「便利は人を遠ざけて、不便は人を近づける」ってやつ。

 

ジャムの瓶が固くて開かない時、「ほれほれ、俺にちょっと貸してみろ!」みたいに人が集まってくるじゃないですか。

アレね。

 

 

 

というわけで最近のマイブームは、「村」なのです。

 

もしかしたら、サバンナの水牛もインフラと医療と生活環境を整えてあげたら、群れを解散させるかもしれないですね。(笑)

 

 

「あっ、僕、大丈夫なんで。」とか言って。

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