去年くらいから、まちづくりまちづくり言ってきたんですけど。
「あれ?、まちって、もしかして作れるんじゃねーの??」と思ったのが始まりで。
ちょっと仮説と実験。
「くじゃく町」という新しい町を作ろうと思って。(笑)
アホみたいな話やと思われますが、アホみたいな話なんでそのまま受け取ってください。
話長いですが、一回書いとくと楽なので。
■「まち」とは?
ついつい僕たちは「渋谷」とか「神戸」のように建物と道路の集合体を想像しがちだけれど、だだっ広いモンゴルの平原や小さな山間部にも「まち」はあるわけです。
コミュニティと言った方がわかりやすいのかもしれない。
人と人が集まり、交換の経済が成りたち、それを保全するためのルールが生まれる。
あるいは、多種多様な世界の中で、似たような感覚を持っていたり、意思疎通の図れる人たちが集まっていく。
くじゃく町は、そういった「共通の文化経済生活様式を持つ人たちの集まる小さな集合体」を、「まち」と定義してみたんです。
それは例えば、県人会やコリアタウンなど、土着でなくとも展開できるコミュニティのようなもの。
エストニアの経緯をたどれば、国境や建物で作る「まち」がいかに不安定で不信であるかっていうね。
なので、豊中市の中で「くじゃく町」という、コミュニティ(=まちごっこ)をやってみようと思ったのがキッカケなんです。
■「コミュニティの保全=はたらく」という再定義
お金が無かった時代(貨幣の流通や価値が不安定だったり、その概念がなかった時代)にも、「はたらく」ことはありました。
管理通貨制や金本位制よりもっと前、物々交換の時代にも、もちろん。
道路や交通がまだまだ発達していなく、村などの単位で暮らしている時代では生活の中で様々な困りごとや補完が必要な場面があったはずです。
台風で木々が倒れたり、多くの人手が必要な作業や、通年行事の催行など。
そういった「コミュニティの健全な運営と保全」に対しての【貢献】が、「はたらく」ことの原点であり本質のように思うんです。
そしてその対価として、寝泊りする場所や食事、また自分が困った時の援助などが受けられたはず。
つまり、「交換」こそが経済の成り立ちであり、「はたらく」という行為は「時間をお金に変える作業ではない」ということ。
お金という概念が生まれる以前は、「貢献の交換」が経済の主役であり、その行為を指して「はたらく」と呼んだんじゃないかと。
「働き者」って本来そういうことですよね。
■文化経済生活の民主化
コミュニティの保全と貢献の交換で成り立つ「まち」では、町民全員が公務員です。
困りごとはみんなで解決し、祭りごともみんなで作ります。
それぞれが自由に、好きなこと、得意なことで貢献する。
「自分にとって容易いこと且つ、相手にとって貢献度の高いこと」が交換の経済です。
全員公務員というのはつまり、役場の持つ機能を民営で動かしてみようということ。
子育てや環境、商業や農業や工業、広報や会計など、それぞれの得意で運営する、分配と共有のコミュニティです。
新しいことを言っているように見えて実は、そもそもあった話なんだけど。
■貢献の可視化
くじゃく町では「はたらく」ことはあっても、対価としての「お金」はありません。
そして、他者を「雇う」こともできません。
資本主義や貨幣経済とは別のところにあるのです。
全ての価値には名前が書いてあります。
そういった「貢献の交換」を可視化するために、くじゃく町では【通帳】を使います。
・誰かに何かをしてもらった時は「どうもありがとう=DAT」
・誰かに何かをしてあげた時には「どういたしまして=DIM」
これを双方が記帳することによって、恩や義理、徳や貸し借りが可視化されます。
感謝の総量や貢献の総量が記帳されることになります。
「誰かの貢献は、誰かの感謝」
「誰かの感謝は、誰かの貢献」なのです。
これは貨幣経済における「収入と支出」の関係に似ています。
DATとDIMはお金ではないので支払いはできませんが、ある人の「はたらき」を第三者が知るツールにはなります。
貸借対照表に近いのかもしれません。
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…とまぁ、今のところそこくらいまで考えています。
これをもっと、面白く楽しく、実用性のあるものにしようとみんなで企むのが「くじゃく町会議」です。
実体のない概念のようなものを実践するツールとして、ゲーム感覚でできる遊びを考えます。
■ 第1回 くじゃく町会議 ■
2018年3月11日(日)20:00~22:00/喫茶ピーコックにて
参加費:500円(チベさんの作るカレー付き)
これからどんどん広がっていく評価経済やお金2.0、働き方改革やローカリゼーションを肌で実感する遊びになれば良いな。
動画でも小一時間くらい喋っているので、おヒマな方はどうぞ(^^)
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