「亜論茶論」っていう月額会費制のサロンを始めて約10ヶ月。
最近よく聞くようになった「オンラインサロン」なんだけど、服部天神にある喫茶店跡地(旧喫茶ピーコック西店)も同時に稼働させて運営してきました。
ゴリゴリに宣伝したわけじゃないし声掛けもほぼせずに、好奇心の強い僕の身の回りの人が参加してくれています。(現在15名)
ほぼ毎日、僕の仕掛けることやその後の感想、ふとした思いつきやアイデア、時事ネタや駄文を投稿したり、交流会を開催したり、日々のお付き合いを楽しんでいます。ビジネスハックをしたいわけじゃないし時代の最先端に行きたいわけでもないので、損得よりも共感支援で繋がる「暮らしの修繕」がテーマです。
ここ最近は特にその要素が強まってきて、去年の5月の記事を読み返してみてもなかなかいい感じになってきたなぁと思っています。
そもそもは「まちづくり」から始まって、「あ、まちって作れるかも?」に至って、「”衣食住教遊”を賄える集団とその運営」ってできへんかなーと唸っているわけなんだけど。
一緒に仕事したり、お祝いしたり、手伝ったり協力したり、おかずの交換や生活雑貨の在庫を確認し合ったり。
本当に小さな範囲でだけれど、暮らしの修繕が始まっているような気がして嬉しくなっています。
今回のコロナショックで大半の人が「経済や生活(=暮らし)」を脅かされたわけなんだけれど、人が生きていくのに必要なリソース(資源)なんて比較的その辺に転がってるんじゃないのかなぁと思うわけです。
閉鎖になっているこども食堂も不特定多数に向けてやるから責任や管理ができないわけで、昔の隣組みたいに特定少数であちこちがやれば本来の「孤食を補う」という機能は保たれる気がします。
「暮らし」や「まち」や「繋がり」について今回は考える事が多いと思うし、なんなら「仕事」や「働く」ということについても考え直す良い機会だと思っていて。
僕は数年前から「働くという行為は、”時間をお金に変える作業”ではない」と言い切っているので、今回なんて働きしろが増えてむしろヒマなんてないのになぁとか思うわけです。
自分を「職業」で区切ってその役割がなくなった途端に「仕事がなくなった!食えない!!」なんて言ってないで、百姓のごとく「暮らしの修繕」に勤しめば良いわけで。
「働く」とは、暮らしの修繕と保全、です。
電車に乗って知らない人の知らない土地を耕してお金を貰って帰ってくるんじゃなくって、自分の身の周りを耕して周囲におすそ分けする。
時間を、どこの誰にどう使うか、ということ。
「亜論茶論」 暮らしを賄う、たらいの縁
1年くらいかかったけど、実感として少しづつ、近づいてきています。(^^)
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